私たちは、言葉に頼らざるを得ない一方で、それを口にした瞬間に、言葉にならない「なにか(余情)」が零れ落ちてしまうことを知っています。

言葉を紡ぐことは、相互理解への切実な試みです。
しかし、意味や定義というフィルターを通るたび、豊かな抽象は削られ、その純度を失ってしまいます。
私は、その削ぎ落とされる前の「余情(lingering charm)」を、加工することなく、ありのままの体温で分かち合いたいと願っています。

それは、ジャズ・セッションで交わされる音の応酬。
プロ棋士が盤上で重ねる、静かなる対話。
伝統的な刀鍛冶で、師匠と弟子の間に流れる「相槌」のリズム。

道を極めた者たちが、非言語で魂を同期させる瞬間の高潔さに、心惹かれるのは私だけではないはずです。

ですが、こうした「高度な領域」だけが「非言語での抽象のやりとり」ではありません。
気心の知れた友人とのアイコンタクト。人肌に触れたときのぬくもり。静かな親密さの中に漂う、名前のない気配。
そしてアートもまた、それらと同様に、概念や感情をそのままの温度で相手に手渡すための、私たちに最も身近な手段のひとつだと考えています。

「他者の考えていることなど、100%理解できるわけがない」
そんな自明の理が、孤独な現代人の心の隙間に根を張り、静かに膨張しているように感じます。

分かり合えないという絶望を抱えたまま、それでも余情を介して、誰かと響き合おうとすること。
相互理解という困難に、私はどこまでも諦め悪く、そして軽やかに向き合い続けたいのです。